プストタ(空虚)に鳴る鐘 

2013

武蔵野美術大学卒業制作展【研究室賞】

カード式20弁オルゴール、Wトレス、木、軽金属、壁にペン

展示風景
展示風景

わたしたちは様々に言葉を扱う。

しかし、私は言葉を上手く扱えているのかときどき不安になる。

思いもよらぬ言葉に傷つくことがある。

同じようにして、わたしも誰かを言葉で傷つけているかもしれない。

 

生きていると、耳を塞ぎたくなるような言葉が飛び交う場面に出会うこともあるが

本来、言葉はそんなことのために生まれたのではないはずだ。

美しい表現を生み出すことのできる、高度な道具である。

わたしたちは、その心地よさに酔いしれることもある。

言葉が生まれた始まりは、美しい何かを表現するためだったと思いたい。

 

私は言語を音楽のように感じられたらと願って、言葉のオルゴールを5体制作した。

自作の詩や、音を遊ぶような言葉を独自のコード変換のルールを使用して、音楽にしている。

部屋の壁には「オルゴールのコード表」と

テキストを楽譜として表記し直したドローイングが描かれている。

 


「母国の単音と、そのアナグラム」
「母国の単音と、そのアナグラム」

「母国語の音と、そのアナグラム」

 

2台の対に置かれたオルゴールには「あいうえお〜わをん」と「いろは歌」のカードが巻かれている。

50音といろは歌を並べただけだが、空白の数は変えず、位置を調整することで、始まりと終わりが同じ長さに一致するようになっている。右下の図はカードロールの詳細である。

 

壁のドローイングはコードのシステムを表すと共に、「あいうえお〜わゐゑを」と「いろは歌」に使われている文字が全て一致していることを、作家自身が試し、確かめるようにしてカードに字が描かれている。

 

 

  

いろはにほへとちるぬるをわかよたれそつねなむうイのおくやまけふこえてあさきゆめみしエひもせす

 

あいうえおかきくけこさしすせそたちつてとなにぬねのはひふへほまみむめもやイゆエよらりるれろわを

  

「母国の単音と、そのアナグラム」(拡大部分)
「母国の単音と、そのアナグラム」(拡大部分)
「test, test, test」
「test, test, test」

 

 

てす

 

てす

 

わん

 

つー

 

てす

 

てす

 

わん つー

 

 わん

 

 

「test, test, test」
「test, test, test」

「憧憬」
「憧憬」

「憧憬」

 

言葉を使う「自分」について、頭に浮かんだ文章をオルゴールに変換した作品。言葉をオルゴールにしたいと考えた最も根底にある理由を題材にしている。オルゴールカードの長さは約6mあり、壁に設置したオルゴールは幅約3mになる。オルゴールの上の壁に同じ内容の楽譜を縦に書き、その右横に内容の文章を日本語の言葉で書いた。

 

 

 

  頭の中に言葉があって

  つまらないことを考えて

  そんなことの為に言葉が使われて

  申し訳ない気持ちになりながら

  「あなたはもっと美しいから」と、無気力に謝る。

 

  記号の源祖なんて正直どうでもいい。

  今ある言葉すら美しく使えない私は

  それでも

  白い壁のへこみを見つめて

 

  へこみ

 

  と言葉が浮かぶ。

 

 

  ただ、それだけのことなのだけど―(endless)

 

 

 

 

 

コード表のドローイング
コード表のドローイング

 

(本作に寄せたもう一つの試み。)

 

 頭の中で何かを思考するとき、私は言語や文字記号を用いて理論を構築し考えている。言葉はコミュニケーションとしての機能が注目されがちだが、それ以外にもたくさんの役割をになっている。人の認識プロセスにおいて、漠然としていた身の回りの物事を一度言語に変換することでより認知と理解が深まり、冷静な分析が可能になることがある。

 確かに、それによって進む思考もある。けれどもそれは、xyz軸の全方位に広がっていたはずの思考の可能性が、一つに絞られる危険な行為かもしれないと、私は時々考えてしまう。

 私たちが思考の時に使う言語はエクリチュール(書き言葉)的な性質を持つのだろうか、あるいはパロール(話し言葉)的な性質なのだろうか。エクリチュールよりもパロールが先に生まれるとするのが西欧哲学でベーシックな考え方だ。確かに人はパロールからエクリチュールを生み出したことに異論はないが、エクリチュールという概念の誕生によってパロールの存在が明確に浮かび上がったのではないだろうかと私は思う。そして、このパロールが人の中で形作られる“前の状態”があるとしたら−− 思考が言葉になる前の状態 –– 私はそうした状態が、自分の感覚の中に在るように思うのだが −− その現象には何という言葉(名前)がつけられるのだろうか。

 果たして、私たちは言葉を使わずして考えることはできないのか。芸術は言葉にとらわれない表現方法を叶える術でもある。それなのに、自分の「思い」や「考え」を表そうとするとき、結局私はテキストによる解釈を添えることを、免れられていない。このテキストが良い例だ。ならばいっそ、時に刃を向くほど強い影響力を持つ「言葉」を、翻弄させるくらい感覚的な受信を試みたかった。つまり、言葉をただの音、あるいは音楽として聴く、ということだった。