くるみの幼子/母になる

妊娠・出産にまつわる4人の女性へのインタビューと、くるみの幼子「kind's baby」に託す童話

2015

【川の間プロジェクト 参加作品】(企画制作:三木麻郁、「Kind's baby」制作:Chiho Yamajo)

ドローイング、写真、テキスト、インタビュー時の音声、胡桃、古布、パン

cafe maru(東京都葛飾区)

 

 くるみパンを作りながら、妊娠と出産の経験のある女性たちに自身の身体に起こった出来事についてインタビューをとる。パンが発酵していく様子を、身体に命を吹き込む様子に見立て、パンに母親たちの話を聞かせる。作ったパンは家に持ち帰って家族みんなで食べてもらう。

 私はこのプロジェクトの展示のために、冊子にまとめたインタビューの文字起こしと、作ったパンを大事に抱える女性たちの手元の写真を揃え、インタビューから印象に残ったエピソードを元に童話や詩を書き下ろした。

cafe maruでの展示では会期中に飲食の提供も可能だったので、インタビューのときに作ったくるみパンと同じレシピで焼いたものを、自らパンを捏ねて焼き、来場者に振る舞った。

 

 

 

 このプロジェクトには2つの目的がある。

 

 ひとつは「“食”と“生命の存続”の関係」に触れることだった。すべての生命は、他の生命を食べることによって繋がっている。生々しい一連のサイクルによって、今の我が身も作られている。本展示がカフェでの展示だと決まったときから、必ずこのテーマを核にしたいと思った。

 

 もうひとつは、「個人に潜むドラマ」を紡ぐことである。自身が何気ないと思っている日常も、他者からして見れば全く何気なくない。すべての人にドラマがある。「出産」と同時に「誕生」という、誰もが等しく経験してきたイベントにも、それぞれ違う体験や思い入れが潜んでいる。それらを一つ一つ丁寧に、記憶を解きほぐすように記録し、多角的なドキュメンタリーに編纂し直すことで、この世に生まれてきたこと、ただ私たちが今ここに存在していること、その意味の根源を立体的に起こすことができるのではないかと、考えた。

 

 この展覧会が企画されたのは東京都内の小さなカフェだった。「Cafe Maru」という看板がかかっている、小さな白い一軒家だ。店主は4人の子どもを持つ女性が一人で切り盛りしており、大抵一人でキッチンに立ち、週3日だけオープンしている。ちょっと、普通のカフェ、とは言い難い。店主の生活リズムに収まった、”お店やさん”、と言ったほうが伝わるかもしれない。常連客は近隣の住人や、近辺を走るタクシードライバーと顔ぶれは様々だが、店主が母であるからだろう、やはり子育てのネットワークは強いようで“ ママ友 ”客は多い。彼女たちの話題は自然と「我が子との出来事」から「出産、育児の悩み」に広がる。

 お店ではファブリック・アーティストChiho Yamajoの作品が、常設展示されている。彼女の代表作である「Kind’s baby」は、くるみの殻のゆりかごに入った小さな赤ちゃんの人形だ。大きさは縦・横・奥行き、それぞれ3cmにも満たない、本当に小さな、小さな作品である。一つひとつ丁寧に表情が描かれた赤ん坊たちは所狭しと店内に並べられ、穏やかに時を過ごしていた。Yamajoもまた3人の子どもを育てる母親である。「Kind’s baby」はそんなYamajo の母の眼差しが感じられる作品だった。Cafe Maruには「母」の存在が強く溢れていた。

 

 私はYamajoの作る人形がくるみの殻に包まれているということが引っかかった。なぜなら、“くるみの殻と種”の関係は、私に“子宮(母胎)と胎児”の関係を連想させたからだ。くるみの外殻のシンメトリーな凹み跡や、実のボコボコした表面は、卵巣の臓器を思わせた。そのことを伝えると、Yamajoは感覚的に素早く理解を示し、「そういうイメージも、持っていると思う。」と答えてくれた。

 キリスト教における有名な聖餐のシーンで、イエスは自らのからだをパンに見立てて語る。「食べる」という行為は、食べるモノにある能力を身体に取り入れたい、取り込みたいという「能力取得願望」として童話文学などで頻繁に描かれることがるように、イエス・キリストのエピソードもまた、この能力者と自分との関係を様々な意味で強めるために「食べる」という行為が取り入れられたことは、想像に難くない。(もちろん、この儀式での「食べる」理由はそれだけに留まらない。)

 

 パンは2回の発酵を経て、膨らみ、大きくなる。捏ねられたは小麦粉は人体のような柔らかさがある。さながらホムンクルスのようだなと、私は時々自身の食事のためにパンを捏ねていて思う。が、ささやかなスリルを妄想してみても、捏ねるたびに立ち上がるイーストと小麦粉の香りに癒されるので、チグハグな感覚に可笑しくなる。確かにイエス・キリストの聖餐のエピソードは言い得て妙ではないか、と思ってしまう。イースト菌で肉体のように膨らませたパン生地に、魂を宿すようにして、私はくるみの実(種)を練り込み、焼き上げ、時に友人たちに振舞って、食べる。・・・しかし、実際に祭典で用いられるのは無発酵パンで、発酵は菌の活動であり「不浄」のイメージが強いため、無発酵のパンを食すのだそうだ。したがって、パンの成長に、肉体の成長を重ねて見たのは、私の想像の世界の神話でしかない。

 

 現在、Yamajo との合作は行っていないが、妊娠出産経験のある女性たちからパンを作りながら話を聞く取り組みは継続している。ゆくゆくはそれらのインタビューと写真を一冊の本に編纂したい。

 

 

コンセプト テキスト

 

「くるみの幼子/母になる」

 

くるみの幼子 ゆりかごに抱かれて

くるみの幼子 何を考えている

くるみの幼子 は、耳を澄ませて聞いている

いつか会えよう 母の声を

遠くで鳴く 鳥の声を

外の世界は急がずとも、(早々すぐに逃げはしませんし)

折を見て、伺いましょう

この心地よさは何物にも代え難いですから

もう少し 眠らせていただきま す

 

くるみの幼子 母は あなたに 護られると言った

 

  

 

(展覧会掲示 ご挨拶)

 

ここcafe maruの店主は、4児の母です。

 

Chiho Yamajoは、3児の母です。

Kind’s  babyという、くるみの揺りかごに包まれた小さな赤ん坊の人形の作者で

Kind’s  babyは、cafe maruにいつもたくさん飾られている作品です。

 

今回が初めての「川の間〈コネクション〉」の展示企画でcafe maruを担当しているコーディネーターは、2児の母です。

「川の間」本部と本展関係者たちとの連絡役を、主に引き受けてくれています。

 

その展示のためにアーティストとして呼ばれた三木麻郁は

初従姉妹を生後2ヶ月で無くした時の経験から、人の誕生を祝うための「誕生の讃歌」という作品を作っている美術家です。

 

この4人の関係者に共通していたことは

子どもを身籠るための身体と母性を持ち合わせた女性であるということと

それゆえに自然と話題に上がった「母であること・母になること」への関心でした。

母になること、つまり、妊娠と出産、そして子育てという生命のいちサイクルを育むことは

当然のことですが簡単なことではありません。

必要な心身のコンディションがあり、それらを満たしたうえで「母になる」というのは、奇跡とも言える確率です。

 

殊に、ここcafe maruは生命を繋ぐために必要不可欠な「食」を提供する場です。

「食べること」は生死と切り離せない艶かしさを持っています。

あらゆる生命は、他の生命を取り込むことで種の存続を維持しています。

そしてかつて私たちは、だれもが女性の身体に宿る生命でした。

胎児の頃の記憶は成長するにつれて早い段階で失われて行きますが、確実に誰もが経験した出来事です。

そのとき、私たちの胎内・胎外ではどのようなドラマが起こっていたのでしょうか。

 

cafe maruという場所で生まれた本展覧会では

まず三木が、葛飾区に暮らす妊娠・出産を経験した4人の女性たちと

くるみパンをつくるワークショップを開催し

その作業を通して、彼女達の妊娠・出産の経験を中心とした会話を行いました。

女性2人だけの親密な空気の中で繰り広げられたこの雑談のようなインタビューを元に

Yamajoはくるみの殻に守られたKind’s  babyを制作

三木はそのKind’s  babyを主人公にしたテキストを寄せました。

Kind’s  babyたちが身にまとっているそれぞれの布は

インタビューを受けた女性達から提供してもらった、思い入れのある布を使用しています。

 

本展覧会(2015年9月4~6日開催)では

ワークショップで作ったパンを大切に抱く母親たちのショット

制作されたKind’s  babyと彼らを主人公にした童話と詩

インタビューの音声と、文字起こしのテキストをご覧いただけます。

加えて、ワークショップで作ったものと同じレシピのくるみパンと

展覧会のためのcafe maruオリジナルメニューを、この展示空間内でお召し上がりいただけます。

 

どうぞお楽しみください。

 

三木麻郁

 

 

企画概要

三木麻郁&Chiho Yamajo「くるみの幼子/母になる」

 妊娠・出産にまつわる4人の女性へのインタビューと

 くるみの幼子「kind's baby」に託す童話

 

期 間:2015年7月〜9月

展覧会:2015年9月4日(金)〜6日(日)  10:00~17:00

会 場:cafe maru(葛飾区立石6-33-9

 

 

 

 

苺が大好きなお姫様です。だから苺姫。野を駆け回って育ちました。

お母さんが手芸が得意なので、苺姫さまのお洋服は、すべてお母さんのお手製です。 

べットに潜る前に、お母さんがつくってくれたお気に入りの白いネグリジェに着替えさせてもらいながら、苺姫はお母さんに今日一日の出来事をお話しします。

「今日はね、お友達と川であそんでいたの。そしたらね、突然、川の水が変わったの。突然よ、突然にね、きれいになったの。でもね、それをお友達に言っても、だあれも分かってくれないの。苺姫がまたおかしなことを言い出したぞって、笑うの。」

口を尖らせている苺姫をよそに、お母さんはケラケラ笑って言いました。

「まぁまぁ、お姫さまは母さんの子どもの頃にそっくりね。」

「そっくりって?どんなところが?」

「そうねぇ。それはあなたが大きくなりながら知れば良いんだと思うわ。楽しみにしていなさいな。」

「わたし、お針仕事は好きじゃないわ。」

「あら、母さんも、苺姫くらいのときは嫌いだったわ。」

「とにかく、お水がきれいになったのは、きっと本当よ。」

「ふふふ。心配せずにもう寝なさいな。お前が本当のことを言っているって、母さんはちゃんと知っているわ。」

お母さんが話しているところに、お父さんが帰って来ました。

「やぁただいま。今日はね、川の上流を掃除してきたんだ。意外とゴミがたまっていたようでね。いやいや、これが結構大変だったんだが…おや、苺の姫さまはまだ起きていたの。」

苺姫はにっこり笑って、みんなにおやすみを言いました。

ああ良かった。あのお水はやっぱりきれいになっていたんだわ。

安心したらすっかり眠たくなって、苺のお姫さまはくるみのベットに深く潜りました。

 

 

 

 

「お前ね。」

「お前はあすこのおうちに行きなさい。」

そう言われた子は顔を上げて、大きなお目めをくりくりさせて、その先を見つめます。

「あすこのおうちに行ったらね、お前は体を弱くして生まれるけれど、心配しなくていい。先に行った兄さんや姉さんたちが、お前を守ってくれる。お前はのんびり、ゆっくり、体を強くするんだ。少し時間はかかるけれど、駆け回るのは、それからだって遅くはないよ。だから、ほら、安心して、行っておいで。」

そうしてその子は生まれました。

病気がちで、みんなはたくさん心配しましたが、その子は全然へっちゃらでした。

元気になったら何して遊ぼう。どこに行こう。

うんと高いところに行ってみよう。

そして、

うんと低いところに行ってみよう。

そんなことばかり考えて、今もその大きなお目めをくりくり動かして、外の世界を眺めています。

 

 

 

 

手の記憶。

 

 

お腹がすいたとき、代わるがわる抱きかかえ、ミルクをくれた手の記憶。

怪我をして痛かったとき、そっと当ててくれた手の記憶。

何が悲しくてか泣き止めないとき、優しくなでてくれた手の記憶。

 

どれだけ触れても

どんなに触れても

 

尽きることのない、手の記憶。

 

 

 

 

 

その振動は突然に、ゆっくりゆっくり伝わってくるのが分かりました。身体の全ての表面から、奥、胸の当たりに向かって、緩やかに全身に響きました。

目が覚めました。目が覚めたと申しましても、瞼の上と下はぴったりとくっついたまま、黒目をくるくる動かして、身体の表面の外側に、感覚を巡らせます。瞼の薄膜から、橙色の淡い光がほのかに写りました。身体の表面は暖かい何かで包まれておりました。

突然の柔らかい振動に少しびっくりしましたが、不思議とその揺れと、身体の表面を包んでいる温度が心地よかったので、ずっとこのまま眠っていたいなと思いました。

ぐうんと足を伸ばそうとすると、暖かく柔らかい弾力が足の裏を押してきました。あたたかくて、やわらかくて、本当に心地が良いこの場所は、しかしながら、ちょっと、どうもいささか、あまり広くはないようです。

それに気が付いたとき、急に熱いものがお腹の辺りからこみ上げてきました。身体がなんだかぽかぽかしてきます。そして、ふわりと身体が浮くのが分かりました。あたりが急に白く明るくなって、

今度は、瞼を少おし開けて、目が覚めました。